一時間旅行


一時間旅行について

はじまり

2012年夏、京都で夜に1時間ぐらいの短い演劇を観に行きました。
烏丸通りから1本か2本東の通りを歩いていて、思ったのは「ここはどこなんだろう」。
旅行先の夜、一人で歩いているような気分になりました。

今思えば、出かけてなかったこと、演劇を観た後の非日常感、あまりよく知らない道を夜に通ったこと、などいくつか条件が揃っていたかもしれません。
このふんわりした感覚を、友人2人(笹尾、釜中)に共有してもらったことがきっかけです。

まちなかに1-2時間いるだけで、旅行中だと錯覚できる。

— サトウ (@aykt) 2012, 9月 1

どうしたら、そのような感覚を再現できるのだろうか、ということについて時間をかけて考え始めました。
昨年取り組んだ日常記憶地図から、生活圏の外はたとえ近くでも未知の領域だということもわかってきていました。

旅が終わった後の旅

「世界の認識」勉強会*1を何度か重ねる中で、旅や巡礼や境界や空間の感覚や認識について考えました。

その中で、日本の「旅」はどういったものだったのだろうと思い、調べたところ、
能因法師、西行、松尾芭蕉達は、先人の後を辿って歌を詠む、という形で「旅」をしたことがわかりました。
「追体験したい」「同じ風景を観たい」という気持ちが旅の大きな原動力となったのでは、と想像します。
旅をして旅行記を書く(例えば奥の細道)ということがセットになっているのだとも思いました。

また、作家の梨木香歩さんのインタビューで、

ほんとうに行きたい場所、自分が内的に行きたいと思う場所は、案内人が行ったことがある場所であるはずがないんですね。そこは、ひとりで到達しないと行けない。帰ってから何度も反芻する旅の案内人は、今度は自分自身になります。

梨木果歩ロングインタビュー”まだ、そこまで行ったことのない場所へ” 考える人 2012年秋号「歩く」 p.52

とあり、旅行記を書くことは、もう一度旅をすることに近いかもしれない、そしてその旅行記によって、追体験が他の人にも可能になるかもしれない、と思い、一時間旅行の「旅行者」は、基本的には一人旅、そして旅行記と記録地図を書いてもらうことにしました。

  1. 人は世界をどう認識しているか、世界への認識はどう変わるかについて考える会。 メンバー:竹岡、笹尾、松本、サトウ。2012年12月に始まり5回開催。

サトウアヤコ


旅行と一時間旅行

その街に慣れ親しんで「知ったつもり」になると知っているものしか見えなくなってしまっています。
一定の目的をもってその街に足を踏み入れるものの、その街にあるまだ見つけていないワクワクやドキドキに対して
無意識のうちに目を向けようとしなくなってしまいます。うっかり街の見方が荒くなっています。

一方、その街に対して、決まった目的を決めて行くのではなく、その街に行くための時間を作って(これこそが旅行ですね)
その場所に行ってみるということをしてみると、別の目的に追い立てられることがないので、
わき見をしたりウロウロしたりするだけの心と時間の余裕ができます。
そうすることで街に対する感度が高くなって、発見や驚き、刺激にたくさん出会うことができます。
慣れ親しんだ街を旅先として見直すことができます。

一時間旅行中は「旅モード」がスイッチオンになると同時に、「普段モード」も自分の中に同時に存在します。
「旅モード」と「普段モード」両方の目で街を捉えます。

あるいは、「旅モード」は「普段モード」を振り返り、「普段モード」を行き来します。
「旅モード」で捉えた街は「普段モード」とのギャップによって、より旅先性が増します。

一時間旅行では「普段モード」と「旅モード」との関係を通じて慣れ親しんだ街を多面的に捉えることができます。

笹尾和宏


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