大学で都市計画・まちづくりの研究をしています。
昨年までは上町台地で働いていましたが、転職してから上町台地の空間は「あの店でごはんを食べる、パンを買いに行く」といった目的型の行動の対象と変わってきました。
戦前に、今里の親戚宅から大阪音楽大学のあった味原本町まで通学していた、ばあちゃんの通学路を辿りました。 当時の通学路沿いにあった要素が現在も残っているのか。
日時 | 12月15日 |
旅行先 | 今里から味原本町 |
旅の費用 | 昼食代:1,000円(空堀商店街の饂飩 きぬ川) |
旅の理由 | ばあちゃんが懐かしく語る学生時代の風景はどんなものだったのか、それを探る手がかりを探したかった。 |
大阪市役所(昭和2年)「大大阪市街地地図」
「(下宿していた)おばさんの家は大今里で電車の終電やった。築港から大今里まで市電が通ったんや。」
かつては路面電車の大今里電停でしたが。その後継となる地下鉄今里駅からスタートです。
「おばあちゃんの向いの3件ほど隣に、服部富子という歌手がおってな、おじいさんとおばあさんがおったんや」
昭和18年に実施された「大阪市今里片江土地区画整理事業」の区域。
当時先端のニュータウンのようなところで、芸能人も住んでいたのでしょう。
「片江変電所、そこへ帰りよった」
片江変電所は2,007年の大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書にも掲載されていた建造物でしたが、2012年にマンションとなりました。当時とは様子が一変しています。
旧片江変電所のまわりを歩いてみますが、それらしい建物はなかなか見当たりません。でも、道路の形状は当時のままです。
箱軒のある長屋を発見。昭和初期の長屋の特徴なので、おそらく開発当初からあったのではないでしょうか。
これもいい長屋。
「大今里南之町」という当時の街区表示板を発見。(現在は大今里南〇丁目)
「おばさんの家はなくなってもうてるやろな」
変電所跡地のすぐ近くの住宅。だいぶん手を入れているが、和洋折衷のハイカラな雰囲気。何か関係ないだろうか。
「心斎橋までは市電でじき、大今里線にのったら10分ほど、戎橋まで晩でも帰れる。わりあい近かったから」
かつて路面電車が走っていた千日前通を西に進みます。ばあちゃんは心斎橋で不二家にいき、大丸でお茶を飲んでいたらしい。なかなか遊んでいたようです。
平野川を越えました。
地図によると、このあたりに猪飼野電停があったらしい。
「おばあちゃんらは、よう晩に音楽会にいってた。夜中でも電車、市電が走ってるから、昼みたいに電気がついて明るかった。」
千日前筋を西へひたすら歩いてみましたが、幹線道路沿いということもあって、かつての名残はほとんどみられませんでした。
玉津3丁目の交差点まで来て、塚を発見しましたが、これは当時もあったと思われます。帰宅して調べると胞衣塚というものであることがわかりました。
「おばあちゃんの友達は阪急電車で来て、鶴橋でみんな降りていた。おばあちゃんとこは家から、はようにいけて便利やった。」
鶴橋駅に着きました。
かつて音大には阪神間のええとこのお嬢さんが多かったようで、阪急電車で梅田までやってきて、その後省線の城東線(現在のJR環状線)に乗り換えて通っていたらしいです。
「下味原いうてな電車は下味原で停まるんやな。そこからちょっと入ったとこや。」
下味原の交差点。このあたりにかつては電停があって、毎日乗り降りしていたようです。ここから先は上り坂で、やっと上町台地のエリアです。
「心斎橋までは市電でじき、大今里線にのったら10分ほど、戎橋まで。晩でも帰れた。不二家にいった、心斎橋の大丸でお茶を飲んでいた。」
放課後はここから市電にのって、心斎橋で「心ブラ」をしていたらしいです。上本町界隈でも遊んでいたようです。
「(音大は)電停からちょっと入ったところや」
千日前通を離れ北に向かいます。当時の音大は旧制高津中学の前にあったとのことなので、高津高校を目指します。
産湯稲荷に着きました。昭和2年の地図にも確認できます。ばあちゃんもたぶん立ち寄ったことがあるはずです。
産湯稲荷一体が「桃山」と呼ばれていたことを示す標柱を発見。
ここには何度が訪れたことがあるはずなのに今まで気づきませんでした。
桃谷駅が昔は桃山駅という駅名だったという話を聞いたことがあり、どこに桃山があったのかと思っていたらここにありました。
隣の公園には「桃山」跡の斜面を活かした(?)アトラクションがありました。桃色です。
北上すると気になる交差点がありました。このあたりは、ぐいっと地形があがっていて、地面が揺れているようです。
地形のわずかなヒダが生み出す「微地形の景」を収集しています。
1m四方解像度のデジタル標高データを分析して、上町台地ほか大阪の様々な土地のわずかな地形のずれ・ゆがみと、それが生み出す景色とストーリーを調べています。(松本)
さらに進むと高低差と象徴的な階段がありました。ここには何回か来たことがあったのですが、住宅地として造成でもしたのかなと思っていました。
帰宅後に先ほどの産湯稲荷を調べていると、大正8年(1919)にかつてここにあった味原池が埋めたてられ、区画整理が行われたということがわかった。付近の標高差を調べてみると、標高8m弱の比較的平坦な土地があり、北と西側に延びる谷間からの水を集める池があったようにも見えてきた。
こうしてみると、先ほどの高低差は池の縁の跡ではないかと想像がふくらむ。
池の縁を歩きます。微地形の景。
「下味原いうてな電車は下味原で停まるんやな。そこからちょっと入ったとこや。ほいで、その向こうが高津中学いうてな、大阪で一番やいうてた。秀才が通いよってた。」
ようやく目的地付近に着きました。
大阪音大は、下味原の電停から歩いてきて、向こう側に高津高校(旧高津中学)があるという発言から推測するに、高津高校の南側にあったのではないかと考えられます。高校の南側にあり、かつ大学があったようなまとまった土地としては、この社宅があやしい。
社宅群のすぐ近くに近代和風の住宅を発見しました。当時からあったのかもしれません。
同じ理由で創価学会の建物がある土地もあやしい。
現場ではどうにも真相がわからないので、法務局で土地登記を調べてみたくなりました。
「ほいで、その向こうが高津中学いうてな、大阪で一番やいうてた。秀才が通いよってた。」
結局、核心となる情報には出会えないまま、目的地の高津高校に着きました。
「音楽学校の16回生くらい、音楽が盛んになったええ時期やった。音楽会もものすごく華やかだった。戦争がなかったらよかったけども、戦争であかんようになってしまった。音楽界が灯りのついたとこで、空襲でなくなってしまった。」
今年93歳になるばあちゃんのかつての通学路を歩いてみることで、断片的に聞いていた戦前の大阪の生活を、空間をとおして一つにつなげることができた。それだけではなくて、自分が暮らしている空間と照らし合わせてみることで、現在の景観に影響を与えている70年という時間を感じることができた。